Sampleこれまで幾度となく問われてきた自由。
あまりにも多方面で自由が説かれてしまったことで、私たちは自由を知っていると思い込んでいる。
啓蒙思想が素晴らしい思想であることは、誰もが同意することです。しかし重要なことは、この啓蒙思想を経由して生まれた人間の自由というものは、欧州の一部、或いは西洋の一部でしか土着的に根付かなかったことです。そして現代の世界は未だ西洋側の普遍的意識による覇権が強い状況が続いているため、こうした自由が実は場所に限定的に規制されていることに気がつき難い状況があります。
ゆえに、本来場所に規制されて生まれた自由は人類の普遍へと昇華され、パッケージ化した上で場所規制を越えた人々に対しても自由が輸出・共有されていったわけですが、それは良いように言った場合に限られます。なぜならば、場所を越えた異なる場所の歴史・文化的な文脈を持つ人々にとって、それは啓蒙ではなく強要以外のなにものでもないからです。そこで普遍化された自由は、解放という概念と渾融していくわけですが、問題は場所を越えた時に、自分たちが信じている自由が正当であるとは限らないことにあります。
つまり人類にとって普遍的な自由というものは、これまで行われてきた如何なる方法によっても実現されることはあり得ないのです。あくまでも啓蒙思想が起きた場所に限定して考えられるものです。こうした土着的性格は、啓蒙思想の根幹である理性・自由・平等などに通じていますが、この場所への意識や自覚を個人が無視した瞬間、必ず相手側にとっては強要の要素が含有されていることに注意を払う必要があります。これまで問題視はされてきたものの、実際に自覚されているようには到底思えません。
ただ、啓蒙思想を経由した自由は、国家に対する市民の自由意識へ接続しているため、この点において効果が高いのは間違いありません。つまり勘違いしてはならないことは、自由を批判する云々ではなく、自由という概念が持つ外部性は必ず場所の規制を受けるという要点です。ここを見逃すと、自由は錯合されていきます。
この自由の外部性に焦点を据えるならば、次のことが明白になります。それは市民革命とは言わずとも、市民の力によって国家を抑止する段階を歴史的に経由しておらず、西洋的な文脈を持たない国々に暮らす人々にとっての自由というものは、おそらく現代の大半の人々が考える自由とは同じではあり得ないということです。これは一つの真理ですが、真理は絶対唯一の普遍的な答えなのではなく、真理ほど場所によって変質するものはありません。真理は多元的だというのが私の考え方です。時間や場所を移れば、真理は容易に変質します。
問題は大半の人々が無自覚に知っていると思い込んでいる自由が、必ずしも自由であるとは限らないという大きな矛盾を孕んでいることです。真理もそうですが、私の考えでは自由とは非常に多元的でああり、自由の本質を一点だけ言うならば、自分自身の心に自由があるかというだけの問題でしかない。全てはここに帰着します。
ここで捉え方に裂け目が生まれてきます。まず、大多数の集団的な問題として考えられる自由であれば、確かに啓蒙思想的な文脈における自由が最も効果的であると言えます。しかし、それさえ普遍になり得ないことは今の世界を見ても明らかです。少なくとも私たちの経験から考えると、結局は自分自身の中に自由があるかということだけが問われてしかるべきなのです。それ以外は全て外部性であり、おそらくここを同じとして考えてはなりません。なぜならば、分離を前提とする近代以降の思考において、外部性へ圧縮されていく集団の意識は、必ず共同体の利害を守る方向へ転倒するからです。むしろ外部に問題の所在を置く古めかしい階級闘争ではなく、徹底的な己自身への内省以外に、外部性を変質させる手段はありません。
自由という問題を外部に持ってきたときに必ず転倒するならば、啓蒙思想ほどこの傾向を顕著に孕むものはありません。そもそも啓蒙思想の始まりとて、所詮はルソーやモンテスキューを見ても分かるように、彼らが伝えられる範疇という場所に限定されながら展開されていたことに起源を持っています。それがフランス革命であれ、それ以前の英国の名誉革命であれ、この性質については全く同じです。