240年に九州北部に上陸した魏の梯儁と、247年頃から数年間ヤマトに滞在した張政。240年代の日本側の最古の記録は、彼らの見聞が朝鮮半島北部の帯方郡を実効支配していた魏の軍を経由して、中国側の王朝へ伝えられました。
この時点で判断できることは、魏の使者は彼らが以前から倭国と呼ぶ特定の地域連合に足を踏み入れ、そこで倭人なる種族に会ったことくらいです。ですが、倭国は今の日本を意味せず、倭人は今の日本人を意味しません。幻想の不気味な渾融が3世紀半ばの日本において起きていますが、このシリーズで見てきたように、この渾融は中国側で起きていた三国時代の動きに完璧に連動しています。
この魏・呉・蜀の三国が覇権を争う歴史の中、その隙を縫って遼東半島に台頭した公孫氏は、やがて朝鮮半島北部の楽浪郡と帯方郡を一部支配し、勢力を拡大していました。この遼東半島の公孫氏の動きは、是が非でも魏を押さえ込むために華北側に進出しなければならない呉にとって朗報となります。そこで呉は早速使者を派遣して公孫氏に呉の皇帝に服属を誓うことを求めたのですが、公孫氏にとっては遠く離れた利害関係のない呉よりも、隣国であった大国の魏との外交の方が問題です。そこで公孫氏は呉の使者を処刑し、その遺体を魏に献上するという暴挙に出ます。
この公孫氏の呉の礼に対する悪しき無礼や裏切りが、古代朝鮮半島から古代日本列島にまで大きな動揺を即座にもたらすことになります。私たちは身勝手な思い上がりから古代の歴史観を過小評価しすぎていますが、東アジアのこの地域は古代より繋がっています。別々に分離して各々に歴史を展開していたなどあり得ないのです。
この公孫氏側の愚行が古代中国情勢を一変させていきます。なぜならば、233年に呉の皇帝・孫権が1万人の兵士と大量の財宝を積んだ大船団を遼東に派遣し、公孫氏の当主・公孫淵に対して燕王という爵位を授けて正式な軍事同盟を締結しようとした動きは、魏にとっては地政学的に大問題となったからです。
この理由は、主に華北を拠点として展開していた魏にとって、これまでは南方の華南を拠点とする呉と、西方の四川盆地を拠点とする蜀だけを見ておけば良かった状況が一変したからです。中国大陸の中でも歴史的な中心地である黄河流域の北半分を支配していた魏は、比較的呉・蜀に対する監視の目を強めることのできる優位な位置に立っていました。しかし、呉が魏の背後で台頭した遼東の公孫氏と同盟を結ぼうと画策したことは、魏からすればほぼ四方を敵に囲まれる構図となり、その上で呉ー蜀ー公孫氏の軍事同盟が締結すれば、一貫の終わりです。
こうした厄介な状況下でありながら、幸いにも公孫氏の当主・公孫淵の裏切りによって窮地を脱した魏は、ここで中国統一のために方針を大きく変える必要に迫られました。
まず、一度裏切った人物は必ず次も裏切る鉄則を踏まえ、当時の魏の皇帝・明帝は公孫淵を即座に大将軍に任命し、魏の皇帝への忠誠を誓わせます。公孫淵からしても、魏と直接戦争するのは現実的ではなかったため、ここでまんまと懐柔されてしまうのですが、魏は同時に238年に重臣の司馬懿に数万の兵力を率いて公孫氏の領土を軍事侵攻することを命令しています。この結果、238年6月頃に遼東で戦闘が開始され、朝鮮半島北部の帯方郡と楽浪郡がいち早く制圧され、8月に公孫淵は処刑されます。
この238年の海を越えた先の動乱は、即時日本列島側の倭国の女王・卑弥呼の耳に入っています。この時の女王の政治的決断が、ヤマト内部で政治的実権を担う複数の諸部族の男王による議論の末か、或いは卑弥呼の神憑りによる神託によるかは定かでありませんが、個人的にこの時代のヤマトの性格から見て女王の神託による決断だろうと見ています。つまり、中国側の三国時代の異変を察知したヤマト側では、即座に未来を決する政略会議が行われたのではなく、神に問う祭儀が行われたということが重要なのです。
この神託の結果、卑弥呼はヤマトの総意として魏の皇帝への服属を誓う決断がとられた時、ある文脈において日本の歴史が始動したと言えます。なぜならば、ここでヤマトの女王は呉や蜀の皇帝への服属可能性を棄却し、公的に魏の皇帝に従属する立場を表明することになるからです。現実的に見て、少なくともヤマトと距離の離れた蜀への服属は考え難いにしても、呉は日本列島南部と近接しており、縄文時代から往来の激しかった深い関係のある地域です。こうした中、ヤマトは中国側の次の覇権は魏になるだろうと神によって決せられ、その神の意志を受けた卑弥呼は即座に使者を魏の皇帝に派遣することを決めます。
ここで[親魏倭王]という称号を魏・明帝によって付与された卑弥呼は、まさに魏の圏域における一つの属国のような扱いを公式に受けることになります。こうして魏はあまり良く知らない倭国側の実態調査を行うべく、実効支配した朝鮮半島の帯方郡から使者を派遣して倭国の動向を探らせたのですが、これは倭国が次の公孫氏にならないかを見極めるための政略的調査と見た方が良いでしょう。魏志倭人伝の記録は、今日の意味での民俗学的要素が豊富ですが、三国時代に勝利するための一つの調査と捉えなければなりません。
ですが、ここで一つの強い疑問が浮上します。それは魏がなぜこのように離れた倭国と同盟関係を締結する必要があったのかということです。
三国時代の関係を考えても、公孫氏の動きは遼東から朝鮮半島北部であるため問題となることは当然ですが、倭国はその朝鮮半島を南下し、さらに海を越えた先の国です。このような国との関係が、一体魏の皇帝にとってどのような政治的メリットがあったのか。ここは非常に重要です。
一つの可能性として私自身が想定しているのは、三国時代が始まる前の漢代頃から把握されていたことが考えられる倭国の所在問題です。特に華北を支配する魏にとって、この倭国の所在がどこであるかは一つの問題です。なぜならば、倭国の所在の如何によっては、実効支配しなければならない可能性もあるからです。そして実際、当時の魏はそのように考えました。いわば、すぐに倭国の存在が魏にとって脅威となることはないが、公孫氏の動きを考えても何が起きるか分からない時代では、一つの甘い見立てが魏の覇権を崩壊させる決定打となる可能性は高い。当時の中国では儒教に限らず、こうした政略に長けた軍師の存在がいたことも見逃せません。相手の隙が生まれるのを、辛抱強く待つのです。
例えば、この東アジア全体を巻き込む動乱が起きる頃には既に没していたものの、蜀には軍師で卓越した策略を画定する諸葛亮(181-234)の影響を受けた後続がいました。私も小さい頃から三国志が大好きで何度も読みましたが、一般的な理解でも蜀の初代皇帝・劉備(161-223)が儒教における優れた人格者であったと描かれていることが印象に残っています。比較的悪役として描かれる傾向にある魏の真相は定かでないものの、当時の魏の為政者からしても、蜀のような存在は極めて厄介だったと言えます。しかし、魏にとって実際に問題になっていたのは大陸で隣接していた呉です。
この時に私たちが気を付けるべきことは、一つです。今の東アジアをGoogle Mapのような地図で見ては見誤るということです。
以下に一つの古い地図を示します。