今週のテーマは、未来を考える上で欠かせない、「風土のアーカイブ」という概念についてです。
歴史とは何かを考える時、その真逆にある伝承を考えることから、ヒントが見えてきます。
日本を巡っていると様々な伝承を知りますが、そもそも伝承とは何であり、なぜ現代まで継承されてきたのでしょうか。
仮に、史実という観点だけが重要であれば、伝承はとうの昔に失われていたはずです。しかし、事実はそうはなっておらず、日本は豊富な伝承が残る稀有な国の一つです。
伝承は、一般的に史実と異なる空想として語られますが、火のない所に煙は立たずという諺もあります。何より歴史は、時代の影響によって歪曲する構造的な欠陥を抱えています。これは歴史が歴史である以上、避け難い性質であり、言い換えれば歴史の本質とも言えるものです。
通常、現代の私たちが知る歴史観とは、明治以降の歴史観を強く引きずったものです。つまり、日本史に対する歴史観では、160年程度の歳月しか経っておらず、為政者が変われば歴史も一変する脆弱性を有しています。
通説化された歴史観は時間への耐久性を持っておらず、時代の動きに流される傾向があるのです。一方で数百年、あるいは千年以上も語り継がれてきた伝承は、この時間に対する耐久性を獲得しており、時代の変化から被る影響を最小限に留めることができます。多少の変質はしますが、大きく変わることはありません。
真理を長く伝えるには、国家規模で形成される歴史よりも、伝承の方が適していると言えるのです。
この観点で結晶したのが、現存日本最古の古事記です。
古事記の本義はフルコトの記録であり、フルコトとは古い伝承のことです。つまり、古事記成立の712年まで残った各地・各氏族が持っていた伝承が、ここで体系的に一つの価値観の中で集約されたのです。
今日まで古事記が残った事実は、伝承の力を伝える生きた教科書と言えます。
例えば、私たちが生きた時代の記憶を、未来へ伝える場合を考えてみましょう。
情報伝達の観点で考えれば、100年先に替わっている可能性が高い為政者の歴史観よりも、100年先も変わらない伝承の方が残る可能性は高いと言えます。逆に言えば、私たちが信じている歴史観は、100年先に残っているかも怪しい程度のものです。
実際、江戸時代の幕藩体制によって構築された歴史観は、倒幕運動を起こした薩長の明治政府が樹立すると、あっけなく崩壊しており、その灰の中から新たな歴史観が構築されていきました。そのため、明治以降の系譜にある私たちは、江戸時代の歴史観を全く知りません。
しかし、歴史の崩壊とは無縁に、江戸時代に育まれていた村落の伝承は、場所において生き残りました。
ここで重要となるのが、場所です。
幕藩体制にせよ、近代国家にせよ、中心軸を想定する位置から語られる歴史は、一見強固に見えても、実は砂上の楼閣でしかありません。なぜならば、国としての日本や民族としての日本人を語る際に、そこで想定されている中心という点は、本当は存在しないからです。言い換えれば、真の歴史は点ではなく面にあり、既存の歴史のように夥しい点を時系列に配置することは、歴史ではありません。
近代以降の国家形成史は、この存在しないものを存在するかのように偽装する歴史と言え、偽装のための高度な技術や知識が、次々と生み出されてきたとも言えます。しかし、これが絶対的だと信じることは、あまりにも危険なのではないでしょうか。
確かに、国家は存続のためには、この偽装を誰よりも信じ込まなければなりません。日本のような官僚機構が強い国は、典型的にこの偽装技術に長けています。しかし、偽装は偽装であり、存在しないものは存在しません。
そこで頭の良い官僚は、法規制を次々と巡らせることによって、偽装を覆い隠すための隠蔽体質を作り上げます。隠蔽体質とは、要するに偽装の事実を外部に洩らしてはならない御法度のことです。
この御法度を法規制、さらにマスメディアの醸成する空気を利用し、1億人を超える規模で偽装を隠蔽する巨大システムを作り上げたことは、世界でも日本が唯一だと言えるでしょう。
その結果、私たち国民一人ひとりが幸福を感じているならば、何の問題もありません。しかし、事実が逆であり、そうした国家的な偽装が国民を幸福に導かないのであれば、一体この偽装と隠蔽は何のために、誰のために行われてきたのかが、個々に問われなければならないはずです。
実際に、明治以降の文明開化は、私たちを幸福に導いたと言えるでしょうか。かつて詩人・中原中也は、「文明開化と人云ふけれど 野蛮開発と僕は呼びます」(1934年11月)という詩を残しています。
もし、あなたの答えが否ならば、個人がいつまでも国家規模の偽装に付き合う義理はなく、次の未来を考えて生きる必要があるはずです。そもそも、明治維新もそうした人々によって実現したことを、今一度思い出さなければなりません。
この時、一方的に歴史を善悪で判断せずに、まずは自らが持っている歴史観を内省し、そこに固着している先入観を突き止めること。その深い思索を経て、日本・日本人の未来のために何をすべきかを考えること。今、私たちが真剣に向き合う課題は、ここに尽きるように感じます。
巨大で絶対的な国家像など、所詮は幻想でしかありません。真に未来を想うのであれば、まず第一に、自らの人生の主導権を自分自身で握ることから始まるはずです。その主導権を取り戻した時、はじめて日本・日本人という実像に迫る道が開かれてきます。
私自身、この探究に意志と使命感を持って挑んでいますが、深く潜れば潜るほど、見えてくる日本の姿は、従来の歴史観とは全く異なることに驚かされます。そのヒントは、かつて民俗学者・坪井洋文が提唱した「多元的世界」にあります。
国家主導の歴史観では、統一国家・日本と単一民族・日本人が常に想定されます。これは、近代国家の宿命であり、同時に弱点でもあります。この弱点を国家は知っているがゆえに、偽装によって弱点を隠蔽し、あたかもこうした一元的な見方が通用するかのように人々を欺くのです。
しかし、真摯に場所を見れば、これらが幻想であることは誰でも実感できます。言い換えれば、移動しなければ実感できない真理です。もしも、現代日本人が未来を考えることができないならば、その一つの理由は、徐々に移動できなくなってきたからでしょう。
国民の大多数が移動を制御された時、分かりやすく、強い主張を持つカリスマ的人物が登場すれば、世論は一気に過激な方向へ傾きます。
なぜならば、どれだけ本や論文を読んでも、ウェブサイトやYoutubeを見ても、AIに聞いても、場所を実感することはできないからです。場所は生きた存在であり、オンラインはそこに吹く風や踏む土を感じることはないからです。
私たちが移動をするのは、場所固有の風土を体感するためです。個人的には、その体感の蓄積されたアーカイブの豊富さが、人生の幸福に直結するようにも思います。
人間は、どうしても頭に知識を蓄えようとしますが、その知識をいくら貯め込んだところで、実用性はありません。実用性がないことは、社会的に頭が良いと呼ばれる人が集まりながら、日本がこの様でしかないことを見れば明らかです。しかし、土地の風土を感じた体感の蓄積には、実用性があります。
風土は、「風と土」と書くように、移動を前提とした概念です。その土地に出向き、風を感じ、土を踏むことは、日本人の太古から連なる感性であり、次の未来を思案する上では欠かせません。
オンラインから未来は見えてきませんが、オフラインからは未来が見えてきます。そして既成の歴史観という強敵を崩すためには、自分自身が日本の多元的世界を、体感において知っている必要があります。頭ではなく、腹で知っているか否かは、今後ますます重要になるでしょう。
そして土地の風土とは、単なる自然景観ではなく、そこで行われた営みの記憶が宿っています。人の想いや意志は、当人が死去しても場所において残るため、同じ想いや意志を持つものが後代に現れた時、意識せずとも、場所において継承されていきます。
こうして私たちは、一見すると自分自身の嗜好で没頭しているように感じることが、実は名もなき先人の想いや、意志を継承していることを知るのです。ここが、スタート地点です。この自覚が芽生えた時、真に未来を想うことができます。
幕末を振り返っても、既存の歴史観に未来を見ず、自らの人生の主導権を取り戻した若者たちは、脱藩という行為で自ら外部に出ていき、移動を繰り広げて様々な場所の風土を感じ取りました。
この風土のアーカイブが、未来を想う共通の意志を持った志士が合流した時、累乗されて新たな世界観を形成したのです。
明治維新が成功したのは、移動によって風土を実感したことで、体制側の偽装を肌感覚で知ったからです。移動できない人々は、こうした実感自体を持つことはありません。
当時と似たような時代状況になってきた今、私たちが歴史から学ぶならば、移動によって体制側の虚偽を肌感覚で知ることから始まるはずです。私はそう信じて、2019年夏から日本各地を巡り続けています。この時、重要となることは、可能な限り移動し、広域から日本を見ることです。
動かない状態で、いくら頭で多様性などを考えても、何にもならないことはもはや明らかです。そして外国人との多様性を提起する以前に、日本人自体の多様性を知らなければ、その議論は時代の流行りでしかありません。現状、ほぼ全ての国内における多様性の議論が陳腐なのは、そもそも日本人自体について、当事者たちが全く思考を傾けていないからでしょう。
そこに固着しているのは、「日本人が単一民族」だという先入観です。
まず、ここを自ら崩さなければ、外国人も何もないはずです。
この見方を誤った時、必ず分かりやすい民族主義に陥ります。
移動することは、こうした安易な主義主張やイデオロギーに陥らないための処方箋であり、ある意味では唯一の術とも言えます。
悲惨な現状に陥っている日本を憂いて、未来を考えようとする日本人が増える昨今。次を考えるための基礎が、実は私たちが知っていると思い込んでいるものにあると気付く時、その想いや意志は真摯に未来へ通じることになるでしょう。