◉◉3月23日発売!三井崇央初の著作『ROOTS: ルーツ探検記 2019-2026』のお知らせ◉◉
『ROOTS ルーツ探検記 2019-2026』(国つ神計画研究所出版局刊)
Kindle 1,250円(税込)(Kindle Unlimitedは無料です)
ルーツを知りたいと思いながら、どこから手をつければいいかわからない。本書は、その問いを抱えたまま7年間、日本列島を歩き続けた筆者の記録である。
祖父母の出身地から始まり、石見の漁村、秋田の雪国、瀬戸内の離島へと辿り着く家系図。
「なぜ太平洋側が苦手なのか」「日本海側に立つとなぜ心が落ち着くのか」——そんな身体的な感覚を羅針盤に、縄文・弥生・古墳時代へと潜っていく時、道を照らしたのは神々からの誘いだった。
本書の特徴は、筆者自身が遺伝子検査の結果を受け取る前に書かれた「前編」であることだ。
遺伝子検査以前に感覚を頼りに辿ってきたルーツと、最先端の科学が示す答えは一致するのか。その実験の過程を読者と共有しながら、日本人の起源という深層へと向かう。
ルーツ探究は、個人の物語であると同時に日本民族の記憶を掘り起こす行為でもある。本書は、自らのルーツを調べてみたいと思う全ての日本人へ捧げる、日本列島を舞台にした私的な探検の全記録である。
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今週は、弥生人と戦争についてです。
「縄文人が弥生人になった」という話を、誰もが学校教育で習った覚えがあるでしょう。
これは、1990年代初頭から日本人を二つのルーツで考える二重構造モデルが広まった影響ですが、現在は、そこに古墳人を加えた三重構造モデルが前提となっています。
こうした進展は、一見すると私たち日本人のルーツ解明に大きく近づいたように思えるかもしれません。しかし、祖先を巡る民族史観には未だ多くの問題があり、実態解明からは程遠い現状にあります。
そこで今回注視したいのは、二重構造モデルから古代史を説明していた頃、どこからともなく「平和な縄文人」と「好戦的な弥生人」という図式が出現し、社会に浸透したことです。
この図式による考え方は、平和な時代を一万年続けた縄文人の世界が、弥生人による戦争で破壊されたというわかりやすい物語を生み出したのですが、実はこの物語は、ある時代以降に急速に社会に浸透したものなのです。
なぜ、こうした説が広まったのか。
その鍵を握るのが、かつて国立歴史民俗博物館館長を務めた考古学者の佐原真です。
佐原は弥生時代の考古学研究に生涯を捧げ、考古学の社会的普及に取り組んだ第一人者です。各地で考古学博物館の設立や吉野ヶ里遺跡の保存運動などの先頭に立った佐原は、考古学は一部の学者に閉ざされるべきものではなく、日本人の共有財産だとする強い信念を持っていました。何より佐原の功績は、それまで現代社会とは無縁と考えられていた考古学を、現代に直結する学問へと変換したことにあります。
この素晴らしい功績の一方で、現代社会に役立つ考古学の普及運動を展開する際、多数に語りかけるわかりやすさを強調するあまり、杜撰な歴史観を生み出したことも事実です。多くの人々に理解してもらいたいという純粋な思いが、結果的に歴史観を歪めてしまう罠に陥ったのです。
この罠から生まれた象徴的な歪みは、古代の戦争に表れています。若い頃に第二次世界大戦を経験した佐原は、戦争を終わらせるためには戦争の始まりを理解する必要があると考え、考古学を「戦争の始まり」を実証するツールとして捉え直します。そして彼は、日本の戦争の起源は弥生時代にあったと考え、弥生人と戦争の観点を提起し始めたのです。
集大成となったのが、1985年の論文『家畜・奴隷・王墓・戦争』です。
ここで佐原は「縄文=平和/弥生=戦争の始まり」という図式を打ち出し、現代社会の問題を古代へ適用することの意義を提起します。
彼は「考古学的事実によって認めることの出来る多数の殺傷をともないうる集団間の武力衝突」を戦争の定義と考え、その考古学的証拠として「守りの村、武器、殺傷人骨、武器の副葬、武器形祭器、戦争場面の造形」を掲げました。
考古学は「戦争の始まり」を実証できるという考えを佐原が打ち立てた時、「縄文=平和/弥生=戦争の始まり」の図式が生まれたのです。
この図式は、1985年時点では、あくまでも考古学者・佐原による一つの見解に留まっていました。しかし、ある大発見以降、この説が急速に社会に浸透することになります。
それが1989年の吉野ヶ里遺跡の報道です。
吉野ヶ里遺跡自体は1986年に発見されていましたが、三年後の1989年に、遺跡から弥生時代の巨大な環濠、無数の竪穴式住居、甕棺墓の列が発見されたことで大注目を浴びます。日本最大規模の弥生遺跡の発見が、直接的に邪馬台国の女王・卑弥呼を連想させたからです。
当時も今も、邪馬台国の所在を巡っては畿内説と九州説に分かれていますが、ここで佐賀県・吉野ヶ里遺跡が筆頭候補に一躍浮上したことで、報道が加熱し、連日マスメディアを賑わせます。
また佐原のライフワークは、邪馬台国の女王・卑弥呼について記された『魏志倭人伝』を考古学から解読することでした。
弥生時代の考古学研究の第一人者と、邪馬台国の女王・卑弥呼というマスメディア受けの良い素材が吉野ヶ里遺跡の大発見で交差した時、千載一遇の機会が訪れたと言えます。
なぜなら、当時の考古学において、吉野ヶ里遺跡の大発見を佐原ほどわかりやすく語れる人物はいなかったからです。
平成元年が幕を開けた1989年2月23日、朝日新聞朝刊一面に「邪馬台国時代の『クニ』」の大見出しが掲載され、巨大な環濠集落・物見櫓・受傷人骨・首なし人骨がセンセーショナルに報じられた時、この潮流は劇的な加速を遂げます。
これ以降、全国から大勢の見学者が吉野ヶ里遺跡へ押し寄せ、「邪馬台国ブーム」と呼ばれる社会現象を生んだほど加熱しました。
当時の社会潮流も見逃せません。第二次世界大戦を経験した昭和を終えて平成という新たな時代の節目を迎えた時、人々が直面したのは「日本とは何か」「日本人のルーツは」という本質的な問いでした。
これは敗戦後、米国のもとで急速に破棄させられた民族のアイデンティティの反動的な復古であり、戦争の記憶が失われる時代にあって、マスメディアの素材としても最適でした。当時、NHKを中心に古代史を幾度も特集しており、中でも「邪馬台国畿内説vs九州説」の論争は格好のコンテンツとして注目されていました。
この社会潮流の影響を受けて、多くの考古学外部の人々が、週末の時間を注いで自ら古代史を実証することに熱中し、古代日本史は学問という専門分野を脱し、外部で活況を呈していきます。私もこの潮流の落とし子です。
いわば、64年続いた昭和という大きな物語が終わる瞬間に、吉野ヶ里遺跡の大発見が重なり、人々はそこに失われた民族のアイデンティティを幻視したのです。
昭和の終わりは、昭和の再考を必然的に生み出します。この時、「戦争」という記憶が再びモチーフとして浮上したのです。
こうした新たな時代潮流の渦中で、佐原が既に「縄文=平和/弥生=戦争の始まり」を図式化していたことは見逃せません。こうした背景を踏まえると、当時の社会潮流において、多くの人に語りかけることができ、かつ納得できる答えを提供できるのは、佐原以外になかったことが見えてきます。
このように数奇な巡り合わせが重なった平成の突入と共に、佐原の考えていた「縄文=平和/弥生=戦争の始まり」が社会に浸透する劇的な転換点を迎えたのです。
平成に入って以降、佐原は60歳の節目となる1992年に奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター長に就任し、退職した1993年からは国立歴史民俗博物館へ移り、1997年から4年間にわたって館長を務めています。
佐原は2002年に亡くなりましたが、彼が築き上げた開かれた考古学の世界は、今も多くの人々を魅了する基盤を作りました。一方で、この過程で産み落とされた「歪んだ民族史観」も考えなければなりません。
なぜなら、弥生人を戦争と結びつけた佐原の視点は、北部九州に集中する戦の痕跡を、恣意的に日本全土へと肥大化させた問題を孕んでいるからです。私の問いは、それが本当に「弥生人」なる存在によって起きた惨事だったのかに向けられており、日本列島で「戦争を始めた」のは、弥生人ではなく古墳人だったと考えています。
日本人のルーツが二重構造モデルから三重構造モデルに変わった今、先人の功績は功績として認めながらも、その功績に固執し続けることには意味がありません。私たちの誰もが生きている時代を無視することはできないからこそ、その中で今、自分の使命を果たすことが求められています。
二十世紀後半に戦争に結び付けられた弥生人の姿を解放しなければ、真に日本人のルーツを知ることには至らないのかもしれません。その解放の先には、縄文と弥生が数千年にわたって共生した世界が広がっているはずです。