今週は、先週に引き続き徐福伝説です。

古代中国で、医術、薬学、天文暦算、占卜、気功導引、錬丹術といった幅広い「方術」を持つ知識技術者集団だった方士。方士は、渤海・黄海近郊の潮風が吹き寄せる土地で育ち、山東半島の斉、遼東半島に勢力を伸ばした燕を軸に、各地で海の信仰を昇華する試みを続けていました。この文化精神の文脈から、徐福が登場します。

紀元前221年に秦が中国を統一して以降も、方士は地元では大きな影響力を持ち続けていました。統一時は、まだ政権が安定しない不安定な時期です。秦は、斉・楚・燕・韓・魏・趙の六つの大国を平定しましたが、始皇帝は統治が長きに及ぶようにと、政治的に天下三十六郡を設置します。全国を36の行政区域に分割し、統治する画期的な仕組みは、やがて日本にも輸入されて今日の都道府県の礎となりますが、元々は皇帝に実権を集中させるためでした。

この実験的な時代を示すように、始皇帝自らが五回に渡る視察を行なっています。始皇帝の拠点は、内陸奥地の陵西省咸陽にある宮殿でしたが、天下を安泰にするために、自ら各地に巡遊した歴史は、いかに統一が困難な道のりであったかを示しています。ですが、この始皇帝の巡遊が、直接的に古代日本史に影響を及ぼす道を開きます。

巡遊で、始皇帝が紀元前219年・紀元前218年・紀元前210年の三回も訪れたある土地があります。それが「琅琊(ろうや)」です。郡治としては、現・青島市西海岸新区琅琊鎮にあったと云われていますが、ここで『史記』(紀元前91年成立)に目を向けましょう。

史記によると、最初の紀元前219年の視察時、始皇帝は山東半島南側の琅琊に自ら登り、景観を気に入って、三ヶ月も滞在したと伝えています。琅琊は古くから斉国の祭祀が行われる要所でしたが、黄海から半島に吹き上がる潮風を浴び、眼前に広がる海に感激した内陸出身の皇帝は、あまりに気に入って、三万戸をこの地に移住させ、十二年間の租税免除を行い、琅琊台という巨大な段丘状の構造物を築く事業を促進する決断を行います。単なる岬ではなく、祭祀の現場でもあった琅琊台は、神・精霊・仙人が降臨する聖地として奉祀されたのです。

そして渤海・黄海で生じる蜃気楼が、始皇帝の心を奪います。内陸育ちの皇帝が、見たことのない壮大な現象に圧倒されている時、現地の方士たちは三神山や土地の仙人信仰について語ります。始皇帝は、方士の術を「鬼神の力を借りて民を欺くもの」して表向きには軽蔑していますが、心を掴まれていました。ここを察知した斉人の方士・徐福を筆頭する一同は、共同で魅力的な提案をします。ここから、古代東アジアの物語は始まったのです。

徐福は斉人の方士集団と共同で、始皇帝に対して上書を行います。それは「海中に蓬莱・方丈・瀛州と呼ばれる三神山があり、そこには仙人が住んでいる。どうか、童男童女を連れて、霊薬を探しに行かせてほしい」というものですが、不老不死と永遠の統治は同一であったため、始皇帝は提案に魅了され、蜃気楼の彼方へ出立する国家プロジェクトの支援を決断します。

数千の童男童女は近場で選抜し、五穀の種子、金銀、農耕具、さらに技術者集団は現地で集めたとされており、船は秦軍の輸送船団を転用したと記されています。調査に関わる費用は、今の国家予算から抽出されましたが、これは単に一人の皇帝の好奇心に限らず、元々海とは縁のなかった秦が、沿海部の海洋インフラを掌握するためにも重要でした。

翌年の紀元前218年にも、再び始皇帝は琅琊を訪問していますが、史記はこの時に徐福の動向について記しておらず、両者が接触することはありませんでした。ただ、当時の旧斉には、無数の方士が跋扈したとされているため、徐福以外の有力な方士とは接触していたのでしょう。

しかし、始皇帝最後の琅琊訪問となった紀元前210年に、状況は一変します。始皇帝は紀元前221-紀元前210の在位なので、自らの死期が近いことを悟っていました。そのため、死を克服する不老不死の力は、是が非でも手に入れたい。
一方で、徐福は長年莫大な資金を食い潰すだけで、何の成果も上がっていませんでした。処罰を恐れた徐福は、「蓬莱の薬は手に入るが、いつも巨大な鮫に阻まれてたどり着けない。どうか、腕の立つ射手を同行させてほしい」と時間稼ぎの懇願を行います。痺れを切らした始皇帝は、自ら巨大な鮫を射殺し、その上で徐福に再出航を命じます。これは、琅琊から出立した船団を阻む海の勢力が、古代東シナ海に存在した記憶を伝えています。

こうして徐福は、再び東の海へと出立していきますが、二度と中国大陸へ帰ることはありませんでした。始皇帝は徐福が戻ってこない中、この巡遊の帰途で崩御します。この由来があるため、徐福は始皇帝の恩を受けながら、裏切った卑劣な人物と以降は見なされるのですが、同時に「平原広沢の王」となったという伝説が囁かれるようになり、伝説は日本列島側へと飛び火します。

ただ、この動きを時系列で考えた時、ひとつの興味深い古代史が見えてきます。まず、徐福の故郷である斉は、六国の中では、秦が最後に滅亡させた国です。当時の秦は、遠い国とは同盟を結んで懐柔し、近い国に攻め入る「遠交近攻」を戦略的に実行しており、地理的に遠い斉とは、表向きの同盟関係を締結し、金銭などで斉の為政者を懐柔し、親秦派勢力が斉の統治を担う構造を構築していました。

斉は五国が秦の侵攻を受けても知らん顔を貫き、国内で秦を批判することは禁句となり、秦の庇護下にある環境を「平和」と都合よく解釈して、自らの戦備も整えない怠惰な統治を横行させていました。秦という虎の威を借る狐として、あぐらをかくだけの斉の為政者は、とうの昔に機能不全だったのです。

斉は、遠く離れた秦は脅威ではない、友好的な同盟国だと事あるごとに喧伝し、国民の不安をはぐらかしながら、隣接する趙・魏・楚を仮想敵と見做し、脅威を秦が除去してくれていると美化します。つまり、斉は腐敗しており、何もしなければ、勝手に秦が隣国の脅威を除去してくれると甘んじたのです。そして同盟国である以上、秦が斉に攻め込むことはないと、根拠なき妄言を首脳部が信じ込みます。

その幻想は、紀元前221年に消滅します。五つの国を平定した秦の将軍・王賁が、一気に斉を侵攻する素振りを見せると、焦った斉の指導部は、侵攻ルートとなる西側に国内から集結した主力40万人を総動員します。しかし、戦乱の世を渡り歩いた秦の将軍は、その動きを察知するなり、征服した燕の南部から南下し、直接斉の都を北から奇襲します。平和ボケしていた斉は、北側国境に防衛策を用意しておらず、最後の君主・田建は茫然自失となります。
国内が呆然とする中で現れた秦の使者に、「降伏すれば、五百里四方の封地を与える」と言われて田建は信じますが、実際には遠国の松林の中に幽閉され、餓死させられています。こうして斉は、呆気なく撃沈したのです。

この歴史は、今日の日米関係と驚くほど重なっています。というよりも、今日の日本は、斉の末路を一つずつ丁寧に確認しながら、同じ滅亡史を辿っているようです。自分の国の未来を、他国に移譲して「平和」を装う一国の怠惰が、どういう結末になるかということを、既に古代中国史は証明しているのです。
重要なことは、徐福が始皇帝に上書した紀元前219年は、斉が惨めな終焉を遂げた紀元前221年の、わずか2年後だったことです。たった2年前に国を失った斉人は、為政者のあまりに粗末な統治によって、他国と比較しても秦の直轄領としての位置付けが強い地域でした。

笑い者となった過酷な状況下で、旧斉の方士たちが、巡遊してきた始皇帝に対して、共同で国家プロジェクト級の資源を引き出し、海に出立した歴史と、最後には帰還しなかった伝説は、故郷を失った斉人による「脱出」だったのではないでしょうか?
現在の日本でも、国内では生活自体が成り立たなくなってきたため、国外脱出が加速していますが、まるで斉の最後を見ているようにも思います。

頼りにならない斉の為政者とは違い、斉人を結集して、当時の最高権力者・始皇帝をペテンにかけて脱出劇を図った指導者。それが、もしかすると徐福の正体だったのかもしれません。するとこの間、相当数の斉の遺民が、段階的に日本列島へ難民として流れ込んだ姿が見えてきます。

彼らは本当に日本列島に渡来し、一から国造りをやり直したのでしょうか?
日本各地に残る徐福伝説が伝える太古の記憶は、母国を失った悲壮な人々の記憶なのかもしれません。

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■ 国つ神計画研究所 Vol.6【2026年4月11日発行】
■ 著者Webサイト:https://jihanjinko.com

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